◇自己紹介◇
元新聞社勤務だった父は、いつも日本語のことばかり話していました。新聞に日本語についてのコラム記事が出れば切り取って小学生の私にくれました。「あの日本語はおかしいぞ、本当はこうだ」というのが口癖のようでしたが、当時は特に気にしていませんでした。しかしだんだんとそうやって日本語を意識するようになります。
父は字もうまくて、活字のように文字を書くのが得意でした。「字も絵と一緒」と言っていました。小学校で新聞係になって、家で記事を書いていた時、見出しを思いっきり明朝体で書いてみせるのでした。本当に活字のようで驚いたのを覚えています。
小学校の2年生から書道を習い始めます。お正月の書き初めで日本武道館に書きに行った時はわくわくしました。小学校3年生の校内書写コンクールで金賞を頂きましたが、文字を書くのが好きになるきっかけになったようです。
中学校の頃、仕事で父が韓国人との間でトラブルに見舞われ、母と私は東京を離れて茨城に引っ越すことになります。5月のある晴れた日、学校でいいことがあって気分よく帰ってきたのですが、なんと家の中がとんでもないことに。
引っ越しの荷造りをしていたのです。
初めて母から、父の事業の失敗と母の実家に引っ越す話を聞かされました。ぼうぜんとしました。涙が出て叫びそうになった時、キッと唇をかんで泣くのをやめたことを覚えています。そしてもう母も頼らない、悲しみも見せない、強い子になる、とそう心の中で思いました。(この我慢という感情は、のちにいろいろ悪さをしてくることになるということをスピリチュアルを学んで知ることになります)
転校した学校は、1学年1クラスしかない小さな女子中学でした。いじめられないかと心配しましたが、みんながとても温かく迎えてくれました。そこで数学の先生が主宰するサークルのようなところで、友人たちが詩や小説を書いていました。私はそこに所属していませんでしたが、周りの子たちが小説を書いているのを見て、物を書くことって面白そうだなあと横から見ていたのを覚えています。きっと書きたかったのだろうと思うのですが、言えなかったのかなと想像できます。
それから県立高校へと進みますが、担任の先生に「脚本を書く仕事をしたい」と言っていたことを思い出しました。文化祭の時にお芝居の脚本を書きたくなったようでしたが、言っただけでもう忘れていました。(大人になって思い出して、藤本義一さんが創設した心斎橋大学という学校で脚本を学びます。結局。)
自分でよくノートに気持ちを書くことをしました。一人っ子でしたし、話し相手もいなかったので、とにかくよくノートとしゃべっていました。何か嫌なことがあると気持ちが落ち着くまでずっと書きました。これはあとになっても自分を精神的にも肉体的にも健康を保つうえで必要なツールとなり、スキルとなりました。今、知りましたがこれをジャーナリングというんですね。
大学の進路を決める頃になっても自分はなかなか決まりませんでした。親の希望どおりの進路に進みたくなかった私は、2月になってもどこにも決まらずにいたところに友人から「うちの県にできる新設大学に日本初の韓国語学科ができるらしいよ」。その電話がきっかけで韓国語を勉強しようと決めました。3時間半かけて大学の下見に行ったら、デジャヴのようにスーッとキャンパスに溶け込む自分がいました。韓国は、中学の時に父が韓国人とのトラブルで家庭が崩壊しそうになった経験があるのにも関わらず、縁とは不思議なものです。きっと韓国という国が私の潜在意識では気になっていたのでしょう。3月の補欠募集に出願し、合格。韓国語の世界に入ります。片道3時間半の通学で、通学中に靴のかかとがはずれるほど歩きました。
ところがクラスの中には韓国語をすでに習得している友人が何人かいて、放課後に特別授業を受けているのを見ました。同じ授業料を払っているのに差をつけられてしまった感じがして、この時点で韓国語熱に火がボッとついたのでした。
もともとはアナウンサーの仕事を目指していましたが、大学を卒業後、路線を変更してNHKの国際放送局で韓国語のラジオ番組を作ることになります。職場には韓国人のアナウンサーたちがいて、韓国の話題が常に周囲を取り巻いて本当に楽しい職場でした。韓流ブームの10年以上前の話です。皆さん日本語がうまいので、私の韓国語はなかなか上達しませんでした。日本語が上手な韓国人たちの中でだんだん自分も両国の言葉を自由に駆使できるようになりたいと思いました。そこでまず目指したのが法廷通訳です。経営コンサルタントをしていた父が法律に詳しかったこともあり、弁護士ではないけれど、困っている方を法的に助けてあげている姿を見て興味を持ちました。自分は韓国語しかできない韓国人が日本で困っていたら何か助けてあげたいと考え、そこから法廷通訳に興味を持ちます。中央大学の法学部に編入して法律を学び始め、法廷通訳士としても活躍されていたNHKのアナウンサー金裕鴻先生にくっついて、よく裁判を見学させてもらいました。
そのあと、ついに一念発起し、30代直前で留学に出ます。ソウル大学の大学院に国費留学することになります。韓国では結婚、出産も体験しました。思い出すのは、大学の中に自動翻訳ソフト制作のベンチャー企業があって、試験的に自動翻訳された日韓翻訳の間違いを何度も何度もチェックするアルバイト。今はAIが素晴らしい翻訳をしてくれますが、当時は「사과드립니다」が「りんご差し上げます」でした(笑)。子供を預けるようになってから翻訳の仕事をするようになります。
2002年の日韓共催のワールドカップの前年、韓国中央日報の翻訳者募集の告知を見て応募しました。合格し、そこからみっちり訳し方、表現の決まり、表記の方法などを覚えました。誤字脱字も許されませんから見直しも気を使って大変でしたが、苦にはなりませんでした。ムグンファ号の通勤定期券を買って、水原とソウルを往復しました。毎日ちょっとした小旅行気分でしたが、リモートワークが可能になり、それから10年、その仕事をします。
中央日報の同僚翻訳者の中に、翌年ソウルに新設される通訳大学院で韓日通訳翻訳学科の学科長をするという方がいました。のちに盧武鉉大統領の通訳をすることになる人ですが、その方の希望で日本語の発音指導の家庭教師をしにお宅に行くことになりました。大学時代にアナウンサーを目指して勉強していたことを元に韓国語と比較しながら伝授したのですが、そのまま声をかけられ、通訳大学院で教鞭をとることになります。翻訳と日本語のアクセントクリニック、エッセイライティングといった科目です。韓国には韓国語を学びたくて行きましたが、それからは日本語の学びなおし、そして日本語を極めていくという課題が課せられるようになったわけです。
開講の頃、映像字幕翻訳に使用するソフトを製作している会社が日本から来て無料体験会を開くとのことで、私は学生たちを連れていきました。無料でソフトの使い方を習得できた幸運をさらに生かそうと、そこから映像字幕翻訳の仕事を始めます。しかしスクールで習ったわけではないので、現場でたたき上げ。それでもクライアントさんが根気よく教えてくださったので、みっちり学ぶことができました。
2003年、子供が小学校に上がるのを機に韓国籍を取得しました。私が韓国で暮らすのに自分が日本人であることは非常に居心地が悪かったのです。当時、いかにして日本人だとばれないかばかりを考え、韓国人の話し方、発音などを必死でコピペしたりもしていました。韓国人たちが通うスピーチ学校にも通いました。小学校に上がる息子が、小学校で嫌な思いをしないようにという気持ちから帰化に踏み切ります。当時、私の周囲はまだ反日感情が根強かったのです。今の時代ならこんなことを考えることもなかったと思いますが、もう日本には帰らないと思っていたのも帰化した理由のひとつです(結局、帰ってきましたが(笑))。帰化には申請後、半年以上はかかると聞いていました。そこで大学院を終える半年前に申請したのですが、なんと半年どころがおそらく4カ月ぐらいで取得できてしまったのです(記憶はおぼろげ)。日本人たちが韓国籍を取るのに踏み絵のように出される出題「独島(竹島)はどこの国の領土ですか」の質問もなかったと記憶しています。国歌を4小節歌うという出題も記憶になく、なんだか気づいたら許可が下りていたという印象でした。これは今でも不思議に思っていて、こんなに簡単に帰化できたことも「普通ではないな、何かありそうだな」と考えてしまうのです。何かというのは、韓国との縁のことです。(でも結婚後、夫の姓の蔡を名乗っていたので、中国人だと思われていたのかもしれません)
こうして帰化し、韓国に暮らしてほぼ10年、という時に、夫が「日本で暮らしてみたい」と言い出しました。「えっ?」と耳を疑いましたが、私も日本に帰れると思ったら心の中ではうれしかったようです。結婚してそろえた家も家財道具も全て手放し、ビザを取って日本に帰ります。ビザを取って帰るというのは違和感しかありませんが、仕方ありません。東京に帰ろうとして、東京の韓国学校に問い合わせたら、待機者が32人と言われ、大阪の韓国学校に聞いたら「どうぞお越しください」と言ってくださったので、縁故のない大阪に「移住」することになりました。
日本に帰国後、まず映像字幕翻訳のスクールの講師を務めることになります。映像字幕翻訳は決められた文字数で訳を入れていく作業ですが、もともと俳句や川柳の得意な日本人ですから、この仕事は日本人には合っているんだと思っています。翻訳が好きな私にはこの仕事も楽しくて、三度の飯より大好きなほど。昼夜かまわずやっていました。お金をくれなくてもやりたいと思うほど楽しいと思えるものに出会えて幸せだなと感じました。
2013年、韓国語の教室を開きます。韓流ブームから10年経ち、当時から韓国語を学び始めた方々がかなりの上級者になっていて「この韓国語をどこで生かしたらいいの?」ということで、私に映像字幕翻訳のスキルを習いに来る人が増えたことがきっかけです。ずっとカフェでパソコンを広げて教えていたのですが、限界で、大阪の本町に部屋を借りたのがスタートです。受講生さんたちと「日本語禁止」の韓国語合宿には関東や九州からも来てくれたり、韓国研修や台湾研修などのイベントも数多く開催し、おかげさまで現在まで続き、私の中の柱ともなっています。2018年には個人事業主としてマウル生き方支援スクエアを立ち上げ、今に至ります。
また韓流ブームのおかげで、韓国にいた頃から書籍を訳す機会もたくさんいただいていました。あまりのタイトスケジュールで、お風呂にも入れない、ごはんもままならない、おまけに円形脱毛が3カ所できたりもしましたが、本人はいたって楽しんでやっていました。
2020年、コロナ禍で教室をたたみ、オンライン授業に切り替えました。在宅でできる仕事は本当に助かりました。また通販会社からお声もかけていただき、ラジオ通販番組の脚本を書いたり、ビジネス書籍のブックライティング(ゴーストライターです)やランディングページ制作など、大好きな日本語で食べさせていただけていることに本当に感謝しています。
2022年の後半、また面白いことがありました。
韓国語の翻訳の力を落とさないために在宅でできる翻訳案件があったらやってみようと思い、エンターテインメントを主に扱う企業が翻訳者を募集していたので履歴書を送ってみました。するとすぐ「電話でお話しましょう」と担当の方からご連絡をいただきました。電話での第一声が「うちの会社でやりたいことは何ですか?」と聞かれたのです。(えっ? だって翻訳者募集っていうから履歴書送ったんですけど…)と頭の中では混乱しかけたのですが、「翻訳じゃないチャンスを与えるとしたら何をしたいですか?(うちの会社ではいろいろやってますよ)」ということだったのですね。でも私はこれまでライティングか翻訳の仕事ばかりだったので「ふむ、急に言われても…」と悩んでしまいました。すると先方から提案されたのは「YouTube」の翻訳とナレーターでした。履歴書を見てのことだったのですね。自分の中では声を出すなんて忘れていましたので驚きました。
それから私の仕事の中に声を出すということが加わりました。また新しい「言葉」のエネルギーの発信です。そこで10月には「日本語と韓国語の発音・話し方クリニック」を開講。日本語を美しく話したい韓国の通訳大学院生や韓国語を美しく話したい日本人たちがあちこちからたくさん申し込んでくださり、楽しくスタートが切れました。オンラインはいいですね。
ずっと書くことばかりやってきたので、声を出す仕事は新しい自分を味わっている感じです。これにも本当に感謝しています。日頃ずっと黙って翻訳をしているので、声を出すと自分の中のバランスがとれるようです。ますます日々、楽しくなっています。
◇これからのこと◇
父は、私に言葉や法律の面白さを教えてくれましたが、母からは、母方の家系に高次元からのメッセージをよく下ろしてきては伝えてくれる親戚、知人が多くいたことから、小さい頃から目に見えないものについての話をよくしてもらいました。トウリーディングやスピリチュアルライフコーチ、スピロジストなどの学びは自然と導かれたもののようです。その学びは自身の生き方や生活で悩みを抱える方の解決のための一助になれればと思っています。
また目に見えない世界について考えるようになって改めて気づいたことがありました。それは、翻訳をする際に行間を訳していたということや、辞書のとおりだけではなく、その文章や、映像ならその人物から出るオーラから訳していたということです。無意識でやっていました。辞書を引くということより、その言葉や人物の動きの背景からくる感覚に集中していたのです。当たり前だと思っていましたが、文字を追って必死で訳している受講生たちを見てハッとしました。行間を訳すと面白くなるよ、と伝えたいです。
この見えないものからインスピレーションを受け取る感覚は、今後もどんどん研ぎ澄ましていきたいと思っています(インドやタイの山奥に行って修行すればいいのでしょうかね(笑))。
日本語と韓国語に関わることは積極的にやっていこうと思います。「言葉」は3次元に必要なツールであり、自分の心の声は自分をつくり、目の前の現実をつくります。自分の生きる宇宙をより豊かにしていくうえで重要な役割を果たす言葉ですが、自分の言葉を整えれば人生も整ってくるし、人生の操縦桿をも握ることができます。そのことを多くの方にもお伝えしたいと思っています。
◇書くことについて◇
2023年に入ってから文章添削士の認定資格をいただきました。
文章を書くことには小さい頃から非常に興味、関心がありました。でも小学生の時、クラスメイトの中にとっても作文のうまい子がいて、常にその子の文のうまさには勝てないなあと感じていました。中学の時は、作文のうまい生徒たちの作文集というがあり、憧れの先輩の文章をいつも読んでは分析していました。
文章を書くのが楽しくなってきたのは、小学校の高学年からで、宝塚歌劇団が発行している「歌劇」という雑誌の中の故・岸香織さんのコーナー「聞いて頂戴、こんな話」を読むようになってからだと思います。ぐいぐい引き込まれる面白さがあって、毎月、発売の日に自転車を飛ばして本屋に行ったのが懐かしいです。
それから大学生になって大江千里さんの歌を聴くようになりました。曲も好きですが、歌詞に惹かれました。「2センチ早く日暮れに近づいた」とか、その場面に自分がいるような感覚になってしまうんですね。併せて千里さんが出された本の文章の描写のうまさに感銘を受けました。本格的に文章をうまく書きたいと思ったのは千里さんの本を読むようになってからかもしれません。
文章を書くことには非常に強いエネルギーを感じます。しかも自分を文章にして書くと、自分自身が整っていく面白さ、不思議さを感じます。2023年は、この「文を書くこと」と、「自分の魂、スピリチュアルの力」を融合させた「大人の文章塾~書く瞑想~」講座を開講しました。そこでは昔からやってきたジャーナリングを通して自分を知り、自分をテーマに長文、短文、人生のシナリオを書くという内容。自分の持てるものをすべて発揮しながら、皆さんと楽しくやれたらと思っています。そしてこれを、翻訳や本の執筆とともにライフワークにしたいなと思っています。
◇翻訳について◇
2023年7月。割と急に映像字幕翻訳の仕事が入りました。作品名は「悪霊狩猟団カウンターズ」2。12話のうちの偶数話を担当させていただきましたが、やはりこの作品のシーズン2を待っていた人も多かったようで、誰にも伝えていませんでしたが、友人や何年も会っていない教え子から「見ました」と連絡をもらいました。名前が出る仕事は緊張もしますが、こういうご連絡を頂くと本当にうれしくなります。
作品を通してつながっていられるというのは何ともありがたいなと思いました。
この作品も本当に面白く「楽しい楽しい」と言いながら仕事をしていました。ご飯を食べるのを忘れて没頭してしまうぐらい、映像字幕のお仕事は楽しいのです。
2023年11月。仕事はいつも急に舞い込んできます。今回は「愛していると言ってくれ」。これは1995年に豊川悦司と常盤貴子の主演で人気を集めたドラマの韓国リメイク版です。公開されたポスターを見ても韓国版は、静かで大人の感じ(これ以上は言えない)。主演のチョン・ウソンはこのドラマの韓国版を実現させたかったようで、作者の北川悦吏子さんに「(版権を)どこにも売らないで」と言っていたそうです。やっと実現できたんですね。それだけでも思い入れが強いことが分かります。大事に翻訳したいと思います。